―― 絵の具チューブ

 私は悩んでいた、しかし傍から見ればなんてことはない、そう、私はイーゼルの上にある今しがた完成した自分の作品を眺めている。部の課題として顧問から言い渡された果物の模写、それ自体に問題はなかった、現にこうして作品も完成しているのだし、けれども用意された果物が本物であったところに影が差す。キャンバスを覗くとあちこちに散らばる生きた光沢、パレットナイフで抉れば実物が取り出せそうなリアル感、人々はそんな私の絵を見て感嘆の声をあげる、私が何1つ満足してもいないその絵に。
 ―今にも動き出しそうな素敵な絵ね
 いつだったか誰かにそんなことを言われたこともあった気がするが、それはまさしく私が思い描いた世界とは正反対のものを意味していた。ませた子供だった私は、相手の機嫌を損なわないよう、無表情な顔に殊更笑顔を貼り付けて言ったはずだ。

「愛原さんの絵っていつ見ても凄いよね」
「うん、私のなんて全然美味しそうに見えないもん」
「そうかな。自分じゃよく分からないけど、ありがとう」

 こんな感じに。
 私は悩んでいた、このキャンバスを再び単色で塗りなおすかを、夕陽に焼けた校舎の中、誰もいなくなった美術室で。絵筆もパレットも仕舞ってしまったけれど、私の手には絵の具が握られている、そして目の前には真っ白だったはずのキャンバス。リンゴの赤、ブドウの青、バナナの黄。
 もう何も迷うことはなかった。

「綺麗な絵だね、消してしまうのが勿体無いくらい」

 突然背中にかけられた声、急に窓から吹いた風、ゆっくりとチューブからはみ出した絵の具、そのどれもが私の手を止めた。驚いて振り向けば横髪が風に煽られて、初めて視界に黒が映る、それでも目の前の人物が近付いてくるのが見える。

「こんな子がいるなら無理してでも学校に来るんだったなぁ」

 私の顔から1個分横にずらされた顔、よくよく見なくても彼の髪も私と同じ、日本人特有の黒髪をしている、でもさっき見たときには彼のどこにもそんな色はなかった。

「あのさ。もしこれに手を加えるんだったら、僕に譲ってくれないかな」
「えっ、あ。これは部の課題作品なんで、これから仕舞うところなんです」

 我ながら苦しい言い逃れだと思った、確かに間違ったことは言っていない、でもそれは絵の具を片手にしている者が言う台詞ではない。私は髪の乱れもそのままに絵の具を台の上に置き、そそくさとキャンバスを抱え上げた。なのに彼の人物は「なら良かった」とか「でもやっぱり残念」とか絵を中心に呟くばかりで、私の不自然な言動には一言も触れなかった。
 キャンバスを棚に入れる、すると鳴り響く下校のチャイム、絵の具を早くなおさないといけない、けれど窓を閉めにかかる自分の腕、絵の具は彼の手の中にあった。それだけでその絵の具は初めから彼のものであったように感じられたし、そうなれば使い果たされようが乾いて捨てられようが私には関係ない、私は先程の自分の行動をその絵の具を手放すことで忘れたかった。
 一通りの戸締りを確認して、右手は鞄を、左手は絵の具セットを掴む、今は1本絵の具が欠けてしまっているがこれは私の半身だ。

「先輩、それでは先に失礼します」

 彼の学年は靴の先が青かったことから3年生だと分かった、比べて私の靴の先は赤、1年生が無言で先に帰るのもどうかと思ったのだ、たとえそれが全く知らない人であっても。

「あ、ちょっと待って。この絵の具」
「それはもう先輩のものですから、差し上げます」
「っじゃあ、かわりに君の名前教えてくれないかな」
「……愛原です」

 鞄を持ってから教室を出るまで、私は一度も振り返ることはなかった、だってそこには忘れたいはずのリンゴの赤が、夕陽の赤が私を見送っていたから。




 翌日、教室から1歩足を踏み出す、2歩目、3歩目、いつもなら自然と足が向く美術室に今日は足が向かない、きちんと左手に絵の具セットは握られているのに。理由は自ずと知れたし、いくら悩んでも仕方なかった、課題は仕上がっているのだし、別に休んでも平気だろう。そういえば赤色の絵の具がない、ふと唇がかさついてくる、帰りに家の近くの文房具屋まで寄ろう、今度は鮮やかなイチゴの赤を買いに。
 下駄箱を出て、グランドを横切って、門のレールを跨いで、小さく深呼吸。体が軽くなった気がして、逆に重たくなる左手、私の半身だった、まるで早く速くと私を急かしているよう。

「早くしないとおいてくよー」
「ちょっと待って!」

 下校時の放課後、私も自分においていかれないように急ぐことにした。


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---2008/09/07---